日本自治創造学会講演(2012年5月11日)

皆さんおはようございます。総務省の牧でございます。私は総務省で今、地域自立応援課長という課長をやっております。霞が関の課長の中で応援という名前がついているのはうちだけでして、地域を応援するという意気込みで名前のついた課が出来てから3年余り経ったところでございます。

若干自己紹介させていただきますと、今は総務省の役人ですけれども実は地方公務員生活が半分以上で、15年以上地方公務員をやっておりました。赴任地は今まで5カ所。引っ越しは10回です。家族とずっと引っ越ししてきたのですけれども、引っ越しはもう勘弁というくらい引っ越しを繰り返してまいりました。具体的に赴任地を申しあげますと、私は旧自治省という役所に入りましたが、この役所が実に地方勤務が多い役所なのです。最初東京で就職して3カ月研修したら奈良県庁に行けということで、奈良県庁で2年1カ月、平職員として働きました。それから東京に戻りまして、消防庁や本省の財政局で勤務しました。それから北九州市役所、これは天下りという批判があるかもしれませんが、27歳の時に政令市の課長になりました。課の部下が10人いたのですけれども、女性1人を除いて全員年上でした。そうしたポジションで仕事させていただいたことは、私自身にとっては非常に貴重な経験になりました。今はIT企業などに若い社長がいますけれども、当時、そんな27歳で課長などというのはおそらく警察庁か旧自治省からの課長くらいしかいなかったのではないでしょうか。

その後、北九州市役所で3年ほど勤めてから今度は通産省に行けということで、今は経済産業省と名前が変わりましたが通産省の基礎産業局にまいりました。当時何があったかと言うと、まずは阪神淡路大震災です。それから地下鉄サリン事件。ちょうどサリンなど化学兵器原料の規制法案を作成していたらサリン事件が起きたのです。私もあと1時間霞が関に早く出勤していたらやられていました。あのサリン事件というのは、霞が関に8時半に出勤する人を狙ってやったのですね。私は遅番で9時半出勤だったので助かったのですが、例えば同じ省内でも、局長などの秘書の女性は8時半前に来ます。そういう方々は被害にあって大変な状況でした。それから、その頃もう一つ取り組んでいたのが今話題になっている電力問題です。通産省基礎産業局というのは、鉄鋼業界や化学業界を所管していたのですが、ああいった大きな工場は自分で発電ができるのです。自家発電すると電気が安いのですけれども、同じ企業なのに別の工場とか別の事業所に電気を送ろうとすると送電網は東京電力が独占していますから高い電気料金になってしまう。せめて自分で発電した分くらいは社内で安く融通させてほしいというような規制改革をやっておりまして、それ以降、電力の自由化がだいぶ議論されました。しかし、何故かその後尻つぼみになってしまって今回原発事故が起こって、改めて発送電の分離みたいな話が出てきて、あの頃やっていた話がもう一度日の目を見るような流れになったのかなと、感慨深いところがあります。

その後、通産省から今度は島根県に行けということになりました。今度は商工労働部の企業振興課長として企業誘致などもやっていました。これもあとでお話したいと思いますが、今地方では、パナソニックなど地方の工場がどんどん閉鎖されています。見ると、当時地価が安い、人件費が安いということで誘致した工場がバタバタと店じまいしています。一方で、生き残っている工場はどういう工場かというのを見ると、特徴があるのですね。

私、定住自立圏構想というのを担当しておりまして、延岡市がそのモデル的な都市なのですが、そこの旭化成の工場に行ったら、今は単なる繊維製品など作っていない。今一番伸びているのは繊維の技術を活用した医療機器です。今中国などでお金持ちが増えており、透析患者が増えているのです。透析をする時にやはり老廃物をうまく濾せるような良い機器かどうか。透析を始めると週に何回か、何時間かずっとベッドに寝て透析を受けなければならないのですが、この機能が良いか悪いかで端的に差が出るのです。それが今爆発的に売れているとのことでした。これからの時代、東京に研究所があって地方に工場があるような、研究所と工場が分かれていても成り立つようだったら、そんな工場は海外に出ていきます。更に言うと東京に研究所を置くこともなくて、研究所自体も、海外の人材を求めて海外で研究してもいいくらいの時代です。日本に残るとしたら、まさに製造の現場と研究開発の現場が密接に隣り合っていて、そこで摺合せと言うか暗黙知というか、デジタルデータにならないようなノウハウをその場で瞬時に研究所にフィードバックして、その研究成果を工場で試す。そういう研究開発型の機能を持った工場でないと、日本ではなかなか生き残れないのではないかと思います。まさに旭化成の延岡工場には研究所があり、数百人規模に研究員を増やしています。これからの地方都市の生き残りの一つのモデルケースではないかと思います。それから一つ余談ながら申し上げますと、先ほどの電気の話ではないですけど、水力発電というと皆さんコストが高いか安いかどう思われますか。実は延岡の旭化成では、電気はほとんど九州電力からは買っていないそうです。そもそも何故、延岡に立地したかというと、もともと九州には水俣にチッソという会社があって肥料を作っていたのですが、水俣病などの問題を起こしました。そこで、別の場所に工場を立地したいという時に、当時は、今みたいに原発はないですし、火力といっても昔は石炭がメインでしたから運ぶのに大変だということで、水力発電がメインだったのです。この水力発電用の水として、九州山地に降る雨水が豊富にあって電気代がかなり安い。今、例えば東京電力などで出している数字でも原発は安く、水力発電はコストが高いとなっていますけれど、実は雨水を貯めてそれを落とすだけなら水力発電が一番安いのです。では何故水力が高くなるかと言うと、揚水発電というものがありまして、夜間みんなが電気を使わない時間帯も原発はずっと動いていますから電気が余ってしまうので、原子力で発電した電気を使って下の貯水池にある水を上の貯水池に汲み上げて、昼間に落として発電しているのです。別の原発で作った本来なら処分するのに困るような余った電気の料金をコストに上乗せするので揚水発電は高いという数字になっていますけども、もともと降った雨水を貯めて落とすだけの水力発電は一番コストが安いのです。まさに揚水発電は蓄電池としての機能を果たしており、揚水などしなくてもよい水力発電は格安だから、旭化成の延岡工場は九州電力から電気を買う必要がないのです。後の話にまた繋がりますけど、これからは、少なくとも食糧やエネルギーのようなものについては出来るだけ地域の中で生みだして、地域内の経済循環を高めるような取り組みが必要ではないかと思います。

その後、島根県から東京に戻って今度は自治省の税務局で税の仕事をやりました。当時、大減税、凄い景気対策をやったときです。定率減税など大幅な減税を実施するためにもの凄く忙しかった思い出があります。一つだけ個人的に印象に残った仕事を紹介しますと、私はアメリカ軍と税金を上げる交渉をしました。当然、軍用車両は非課税ですけども、アメリカの軍人やその家族が乗る自家用車には税金かかるのですが、日本人に比べて自動車税の税金が安いのです。これは国際条約で財産課税と応益課税のうち、道路を走ると道が摩耗するので道を直す費用、その道路を走った分の応益課税、受益に応じた分は取るけれども、財産課税的なものは外国人には課税しないことになっています。その分は安くなっているのですけども、当時、日本人の自動車税はどんどん上がっていたにもかかわらず、アメリカ軍人の自動車税は15年間全く上がっていなかったのです。それが沖縄の少女暴行事件だとかいろんな問題もあって、何でアメリカの軍人だけこんな自動車税が安いままなのかと不満が高まる中で、私は単身横田基地に乗り込んで交渉しました。そして先方にも自治省に来てもらい、再び横田基地で交渉し、15年ぶりにアメリカ軍人の自動車税を引き上げるという仕事もさせて頂きました。税金を上げるというのは凄く大変な仕事なのですけれど、やはり最後はきちっと理屈を立てて皆さんの合意を得てやれば、物事は進むのではないかとその時思いました。少し長くなってしまいますが話を続けます。アメリカの軍人さんがどういう新聞読んでいるかというと、スターズ&ストライプス、星条旗新聞という英字新聞が極東地区にあります。実はその記者から取材があって、もう日本の地方財政も大変で、各県知事も給料をカットせざるを得ないくらい大変なのだということを言いました。しばらくして、その極東地区のアメリカ人が皆読んでいる新聞に、自治省税務局のシンタロウ・マキがこれこれこういう理由で税金を上げさせてくれといっているという記事が載ったのです。そうしたら、今まで冷やかだった外務省から「牧さん、今回は上手くいくかもしれないよ」という話が私のところに来ました。これはどういう事かというと、結局アメリカ軍人の皆さんは、極東で投票をする機会があるわけではないので、その代わりにみんなが読んでいる新聞に日本国政府が自動車税を上げさせてくれと言ってきているという記事が載る。そのこと自体、納税者の皆さんの反発がそれほど大きくないのであれば上げてもいいというふうに米軍当局が考えているのではないか。おそらく外務省の人はそう思ったのでしょう。その記事が載ってしばらくして、今度は自治省へ交渉に出向きますという話がアメリカ軍からありました。税金を上げるというのは一番大変な仕事で、国会でも色々議論されていますが、おそらく税金をきちっと納得していただいたうえで納めて頂くということが、実は国も地方も、まさに地方議会の仕事でもそこが一番大切な部分だと思います。地域自立応援課長という立場で申し上げると、国からお金が地方にどんどん来るという時代はもう終わったと思います。そうした中で、どう地域で経済を回して、本当に地域の住民サービスに必要な税金をどのように地域で集めていくかということを真剣に考えるべき時代がきたのではないでしょうか。

その後、自治省税務局から今度は北海道に行けという話になりました。私が北海道に赴任した時は、実は北海道経済が大変な時で、指定金融機関だった北海道拓殖銀行が破綻した後だったのです。もう北海道経済はガタガタでした。銀行が潰れると、預けてあるお金は大丈夫かと心配する人がおられるかもしれませんが、銀行が潰れた時に一番困るのは実はお金を借りている人なのです。銀行からお金を借りていて、もし銀行が潰れたらチャラになるなどと思ったら、全くそんなことはありえない話で、実は銀行が潰れた時にはお金を借りている人が一番困るのです。要するに潰れてしまったら、すぐ返してくれという話になるのです。1年後に返せばいいはずだった借金をすぐ返してくれと言われたり、あるいはそれが不良債権に分類されてしまうと、普通なら運転資金であれば1年経ったらもう1度300万円当然貸してくれると思ったら運転資金すら貸し剥がしにあう。そんな状態になって1社の手形が不渡りになると健全な会社まで連鎖的に経営が悪くなるという酷い状態でした。そうした中で北海道庁が景気対策のため借金を背負って、私が赴任した時には北海道の予算規模は3兆8千億円まで膨らんでいました。当時47都道府県の中で財政規模は東京都が圧倒的に1番です。私が財政課長になるまで全国2番目の財政規模だったのは、ずっと北海道でした。3兆8千億円というと、東京都の予算規模が7兆円程度でしたからその半分を超えるくらい補正予算を組んで、公共事業でテコ入れしたり、中小企業が倒れたらいけないので無利子貸付や低利融資、信用保証を打ったりしていました。ところが普通は景気対策を打つと、経済が回復して税収が上がるのですけれども、北海道の指定金融機関は破綻するは、その後は公共事業費も削られるはで、税収が全然回復しない。いつまでも北海道庁が借金を抱えて経済テコ入れのためどんどん公共事業打ち続けるわけにいかないということで、いよいよ人件費カットや公共事業の縮減に入る時にちょうど私は財政課長をやっておりました。私は3年間北海道にいたのですが、私の赴任する直前の補正後の予算規模が3兆8千億円だったのを、私が東京へ帰る前に最後に査定した予算が2兆9千3百億円と、だいぶ削り込みました。これはある意味で聖域なき見直しという事でかなりきつかったのですけども、それでも職員の人件費カットもしながら、なんとか予算を編成したことを覚えています。

北海道から東京に戻ってきて今度は情報通信政策局でした。総務省という役所は旧自治省、旧総務庁、旧郵政省が一緒になりまして、旧郵政省は情報通信をやっていましたが、今度は情報通信の仕事をしろということで、ちょうど総務省には2002年に帰ってきました。21世紀の始まりに政府はe−Japan戦略を発表しました。当時の総理大臣が、ITのことをイットと読んだという事で話題になりましたけれども、あのイットという読みはある意味で正しいですね。我々はITからICTへとよく言うのですけれども、外国に行ってITと言っても通じないことが多いです。ICTなのです。ICTのCというのは何を意味するかというとコミュニケーションです。情報通信技術はICTというのが世界標準で、アメリカに行ってもヨーロッパに行ってもICTなのです。それに対してイットというのはまさに物なのです。ネットワーク、光ファイバーの回線とコンピューターだけだったらそれは単なる物に過ぎません。それをどう使うかというコミュニケーションツールとしてのICTのCこそが、一番の眼目だということです。情報通信技術ICTのCはコミュニケーションですけれど、これを日本語に訳すと「通信」なのですね。「通信」という言葉を聞くと皆さんピピピッと電気信号が飛び交うような無機質なイメージをお持ちかもしれませんが、明治時代にコミュニケーションという英語を日本語に訳した人は素晴らしいセンスがあったと私は思います。「通信」というのは「信を通ずる」ことなのです。信頼を通じ合うのがコミュニケーションだということで「通信」という言葉が生まれたのです。何か通信というと無機質なイメージがありますが、これから本当のコミュニケーション、「通信」の時代がくるのではないかと当時考えて仕事をしていました。

その後、情報政策関係の仕事をしたあと兵庫県庁に4年ほど勤務しました。その時の兵庫県は阪神淡路大震災の影響で財政がきつかった。一番大変だったのは組合交渉ですね。人数的にはこの部屋よりもちょっと多いくらいの人数で、組合の各支部の代表者がずらっといるなかで、担当の部長として徹夜交渉を何回もやりましたけれども、やはり職員の皆さんも生活がかかっていますからね。公務員の給料を抑えるということについていろいろ議論はありますけれども、やはり県民の皆さんへのサービスをどこかで抑える、我慢して頂くときに公務員自身もやはり一定程度、言ってみれば負担を分かち合うという気持ちがなければ行革というのは出来ないのではないか、当時は本当にそう思いました。兵庫県の部長職は12%カットだったので、東京に戻ってきたら一旦給料が上がったのですが、今度また本省の課長クラスは10%カットというのが現状です。

ちょうど15分くらい経ったので、次の発言機会に少し具体的な話に触れさせて頂きたいと思います。どうもありがとうございました。
http://jsozo.org/event/index.html

【日本自治創造学会第三分科会(2012.5.11)講演録から自己紹介部分を抜粋】